死とは
地上のすべての人間が共通して体験するものは《死》です。
権力者も大富豪も宗教者も無神論者も誰も逃れることができない宿命が《死》です。
生きて呼吸している人間と死んだとされ呼吸の止まった人間の違いは何でしょうか?
【死とは】
さっきまで声が聞こえていたのに、もう返事をしてくれない 笑ってくれない 何の反応もしてくれない
家族や愛する人の死に際し、「死ぬと本当に存在が消えるのか」「死んでどこへいったのか」などと、疑問に
思う人はいます。いつかは自分もその《死》を体験するのですが、ほとんどの人が「地上人生の終わりの《死》に向かい誰もが進んでいること」を、忘れています。
病気などで死が間近に迫った時にようやく、避けたい・少しでも遠ざけたい、何とかして、1か月でも1日でも生きたいと《死》を意識するようになるのです。
(1)死は、人間にとっての最大のテーマ
1)死は、人間にとっての最大の悲しみ・不幸・悲劇・恐れ
・愛する人の死があまりに悲しく、何年も立ち直れない人
・生きる気力をなくし後追い自殺をする人
・ベッドに縛られたままの延命治療や臓器移植などで、寿命を延ばそうとする人
“死”は地上の人間にとって切り離すことができない最大のテーマです。
2)死の問題解決と宗教の使命
・“死”を扱わない宗教はない
人間が“死”を恐れ、死別の悲しみを和らげ、人間にとっての最大の不幸からの救いを求めて
きたからです。
・人間が存在する所には必ず宗教も存在してきた
文明が未発達な時代においては、自然信仰(太陽信仰・山岳信仰や巨木や石など)があり、
特定の地域や民族に伝わる土着信仰なども存在
・人類は宗教に「死への恐怖」や「愛する者の死の悲しみ」に対する心の拠り所を求めてきた
3)死生観は人間の生き方を決定する
・科学が発展し科学万能主義の今、科学が証明できない霊的なことを理性が納得できないから
と「死はすべての終わり」と考える唯物主義
・この地上世界しかないと思う人にとって、地上人生は楽しくなければ損と考える
できるだけ人生を楽しもうとすれば → お金が必要 → 人よりも多くのお金を持ちたい
結局→人生の目標が、苦労のない生活、安泰な老後
・医学では今の医学のレベルで「死の定義」を勝手につくり、医師が「死」を判断している
→ 医学知識のレベルと医療機器の進歩に伴って、「死の定義」は変化していくはず
臓器移植や安楽死といった問題も変わる
医療において「死」は敗北 → 何とか命を引き延ばそうと 延命治療が行われる
・死後の世界などなく地上世界しかない
→ 人生に楽しみがない、望むように生きられない、苦しいことばかりで辛い
→ 損な人生は終わりにしよう 自殺を考える
「死生観」は生き方に大きな影響を与えます
「死」について、「死後の世界」、の正しい知識を持つと生き方は変わる
それは、人生観が変わるということになります
(2)死の正しい定義
1)脳死は人間の死ではない
・呼吸が止まり、心臓の鼓動が停止し、瞳孔が開くといった肉体的変化を判断基準にしてきたが、臓器移植の広がりで臓器摘出を最優先にするようになり → 脳死=死 とした
先の判断基準で心停止を待つ=提供できる臓器は、腎臓、膵臓、眼球
脳死=摘出直前まで血液の流れがあることから、心臓・肺・肝臓・腎臓・膵臓・小腸・眼球の7つの臓器
脳死状態とは人工呼吸器などがなければ死に至ると言われているが、回復した人間がいることも事実。
しかも、まだ動いているうちに臓器を摘出したいという利己的な思惑から死の判断基準が変えられてきた
スピリチュアリズムでははっきりと、脳死は死ではないと断言し、臓器移植も認めない
2)スピリチュアリズムの“死の定義”
・現代医学では、心や精神は脳が作り出すとされている
→ 根拠として脳が損傷を受けると、精神に異常をきたす・記憶をなくす
薬物で脳に過剰な刺激を与えると幻聴や幻覚、さらに異常な興奮状態を作り出す
・物質である肉体を持つがゆえに、脳を通して意識したり自己表現しなければならいので、脳の影響を受けるが、だからといって 霊魂が存在しないという根拠にはならない
では、スピリチュアリズムの“死の定義”とは
<シルバーコード>が完全に切れた時=肉体の死
『霊訓(10)』 P.50/LB3~P.51/L1
「霊視能力者が見れば、霊体と肉体とをつないでいるコードが伸びて行きながら、ついにぷっつりと切れるのが分かります。その時に両者は永久に分離します。その分離の瞬間に死が発生します。そうなったら最後、地上のいかなる手段をもってしても肉体を生き返らせることはできません」
『霊訓(8)』 P.134/LB4~P.135/L4
「霊が身体を生かしめているかぎり、両者のつながりは維持されます。霊と身体とをつないでいる“玉の緒”───胎児と母胎とをつないでいる〝へその緒〟と同じです───が切れると、霊は身体から解放されます。身体の死を迎えた人にとっては霊的生活の始まりであり、地上へ誕生してきた霊にとっては物的生活の始まりです(中略) 霊が身体から離れるべき時期がくれば、地上のいかなる機械をもってしても、それ以上つなぎとめることはできません。いったんコードが切れたら地上のいかなる人物も、霊をもう一度つなぎとめる力は持ち合わせません。その時点で肉体の死が生じたのです」
・スピリチュアリズムでは「脳死」をどうみているか
シルバーコードは太いものからクモの巣のようなものまでさまざま
通常は同時に切れることはなく、徐々にきれていく
(事故死や自殺は無理やり切ることになる)
脳死=頭部の太いコードが切れているが、腹部(丹田)から伸びるコードが繋がった状態
逆に頭部が繋がり、腹部が切れた状態の時=意識ははっきりしているが身体が動かせない状態
脳死はまだコードが繋がった状態なので、スピリチュアリズムでは死とはみていない
脳の機能は停止しても、霊的意識は活動している その状態でいろいろな体験をしている
そして、シルバーコードから霊的エネルギーを得て生きている
現代医学では脳死状態=特別な延命装置で処置をしないと死ぬ
しかし、脳死状態で何年も生きる事実があり、脳死と判断された後に意識を取り戻し、臓器摘出を免れた事例もある
→ 現在の医学ルールの脳死=人間の死
『最後の啓示』 P.154/LB1~P.155/LB4
「脳が回復不能の損傷を受けることがあります。医学者の中にはそれをもって生命の終わりとする人がいますが、必ずしもそうとは言えないのです。(中略)本当の死は霊が身体から完全に離れてしまった時のことです。それは俗にシルバーコードと呼ばれている発光性の生命の紐(玉の緒)が切れた時のことです。
この世に誕生した赤ん坊はヘソの緒が切断されてはじめて一個の独立した人間となるように、霊もシルバーコードが切れた時にはじめて霊界の一員となるのです。
地上の医師にはその事実を確認する手だてがありません。実を言いますと、身体は植物状態になっていても、霊そのものも本当の死に至るまでにいろいろと学ぶべきことがあるのです」
『霊訓(11)』 P.206/L5~P.207/L7
「―――心臓が停止したら死んだことになると言う人もいれば、脳死を持って本当の死だと主張する人もいます。あなたは何をもって〝死んだ〟と判断すべきだとお考えですか。(中略)
『いわゆる“霊視能力”を持った人が見ると分かりますが、霊体と肉とをつないでいるコード(玉の緒)が霊体から次第に離れるにつれて伸びていき、それがついに切れた時、両者の分離が最終的に完了します。その分
離の瞬間が死であり、そうなったら最後、地上のいかなる手段をもってしても、肉体を生き返らせることはできません』」
(3)死のプロセスの諸相――シルバーコード切断のさまざまなケース
死=霊体と肉体をつなぐシルバーコードが完全に切れた時
このシルバーコードの切れ方・・・一人一人でとても違う
すばやくスムーズ切れる人やなかなか切れない人など、死に方には人それぞれ異なる様相となる
ぎこちなく切れる人といったように千差万別
シルバーコードの切れ方(死に方)を決定するのが・・・本人の霊的成長のレベルや、地上人生における意識の持ち方や生き方 → 本人の魂の状態によって、死に方がさまざまになる
一般的に、霊体と肉体の結びつきが強い人ほどシルバーコードを断ち切るための時間は長くなり、苦痛も大。
反対に、霊体と肉体の結びつきが弱い人=霊的成長をしている人は、シルバーコードの切断が自然に、何の苦痛もなく進行していく。そして“死”はきわめて穏やかなプロセスとなり、“死の眠り”からもすばやく覚醒する
次は、シルバーコードの切れ方からさまざまな死に方をみる
1)自然死の場合 (老衰による自然死の場合)
生命力が徐々に衰え、それにともなってシルバーコードも少しずつ自然な形で切れていく
完熟した果物が木から離れて落ちていくように、スムーズに死のプロセスが進む
『教え(上)』 P.189/L6~L8
「一般的には、地上から霊界への移行に困難は伴いません。大抵の人間は、死の瞬間を無意識状態で迎えるからです。死ぬときの様子を自分で意識できるのは、よほど霊格の高い人に限られます」
2)霊性の優れた人の場合 (物質的視野ではなく霊的視野でみることができていた人)
霊性が優れ、日常生活での関心事が物欲から超越しているような人は、地上にいながらにして霊界での生活を送ってきている。 そうした人の霊体と肉体の結びつきは弱くなっていて、心臓が止まればただちにシルバーコードが切れるようになる。死のプロセスに苦痛を感じることは、ほとんどない。死にともなう意識の混濁もあまりなく、少しのまどろむ状態を経て、すぐに目を覚ますようになる
幸福感・至福感に満たされる中で、死のプロセスが進行することもある。
『教え(上)』 P.195/L1~L3
「―― 呼吸が止まった直後にどんなことが起きるのでしょうか?
『魂に意識がある場合(霊性が発達している人の場合)は、霊的身体が徐々に肉体から抜け出るのが分かります』」
3)物質的・本能的な人の場合
人生を本能的・肉欲的に生きてきたような人、霊的なものに無関心で物欲・名誉欲・支配欲に翻弄されてきたような人は、霊体と肉体の結びつきがきわめて強くなっている → そのため死に臨んでも、シルバーコードがなかなか切れない
死が近づくと、シルバーコードの切断が始まるが、多くの場合、霊体と肉体の分離に長い時間がかかり、シルバーコードの切断に苦痛がともなう
『霊訓(8)』 P.103/L2~L6
「死とは物的身体から脱出して霊的身体をまとう過程のことです。少しも苦痛を伴いません。ただ、病気または何らかの異状による死にはいろいろと反応が伴うことがあります。それがもし簡単にいかない場合には霊界の医師が付き添います。そして、先に他界している縁者たちがその人の“玉の緒”が自然に切れて肉体との分離がスムーズに行われるように世話をしているのを、すぐそばに付き添って援助します」
4)急な事故死や非業の死を遂げた人の場合
事故などで急死するような場合、霊体と肉体の分離の準備が全くなされていないために、複雑な状況が展開することになる。
この場合でも、本人の霊的成長の度合いや日常生活での霊的意識の持ち方が、結果を大きく左右する
大半の場合、本人は突然の出来事に対応できず、何が起きたか理解できず混乱の状態に陥る
しばらくの間、「自分は生きている」と思う
霊体になった自分の姿を見ても依然、地上に生きていると思っている
しかしその後は、霊的成長の進んだ人とそうでない人では、大きな違いがおこる
①霊性の優れた人の場合は、周りの環境の変化から、自分が不慮の事故で死んだことを悟るようになり、特に生前から「霊的真理」を知っていた人は、短時間のうちに自分の死を悟るようになる
②肉欲的な生活(物質的価値観しか持ってなかった)をしてきた人間は、いつまでも自分の死を自覚することができない
『現地報告』 P.75/LB5~LB2
「私は道路を横切ろうとしていました。すると急に何かが私に当たりました。それはブレーキが効かなくて坂道を転がり落ちてきた車だと思います。私は壁に叩きつけられ気を失いました。苦しかったという記憶はありませ
ん。何かが私の方にやってきたのを覚えています。それがすべてです」
『現地報告』P.68/L1~P.69/L6
「おそらく私は脳溢血か心臓麻痺で死んだのだと思います。とにかく私は死にました。最初、辺りがとても明るいことに気がつきました。少し変な感じがしました。(中略)
私には何がなんだか分かりませんでした。頭がとても混乱しました。私は自分の体をゆすって目を覚まそうとしました。『これは不思議なことだ、自分は夢を見ているに違いない』と思いました。私は自分が死んだなどとは思いもよりませんでした。次に私は医者の家に向かって歩いていきました。おそらく彼なら私を助けてくれるだろうと考えたのです。(中略)
そのうち、慌てふためいて医者の所に駆け込んでくる人が見えました。彼は医者の家に飛び込み、私やそこにいた人たちを押し分けて医者の所に行きました。そして次の瞬間、彼が『ホプキンスが死んだ!』と言っている声が聞こえました。
私は、いったいどうなっているのか分からなくなりました。『私が死んだはずがない。現に私はここにいるのに、どうして私が死んだなんて言うのだろう』」
『福音』P.34/L10~P.35/L2
「さて、死後のことで、ぜひとも知っておいていただきたいのは、肉体を捨ててこちらの世界――生命の別の側面、いわゆる霊の世界へ来てみると、初めのうちは戸惑いを感じます。思いも寄らないことばかりだからです。
そこで、しばらくは地上世界のことに心が引き戻されます。愛情も、意識も、記憶も、連想も、すべてが地上生活とつながっているからです。そこで、懐かしい場所をうろつきますが、何に触っても感触がなく、誰に話しかけても――我が家でも会社でも事務所でも――みんな知らん顔をしているので、一体どうなったのだろうと困惑します。自分が“死んだ”ことに気づかないからです。
しかし、いつまでもその状態が続くわけではありません。やがて霊的感覚が芽生えるにつれて、実在への自覚が目覚めてまいります」
5)自殺者の場合
自殺者の場合は、霊体と肉体が特に強く結びついているので、シルバーコードがなかなか切れないために、肉体の苦しみがそのまま霊体に伝わり、激しい苦痛を味わうことになる
この苦しみ・痛みは、神から与えられた生命と霊的成長のチャンスを、自ら捨て去った罪に対する罰になる
それは「カルマの法則」のもとで引き起こされた結果
『霊訓(9)』 P.209/L7~LB1
「大多数は私に言わせれば臆病者の逃避行為であると言ってよいと思います。果たすべき義務に真正面から取り組むことができず、いま自分が考えていること、つまり死んでこの世から消えることがその苦しみから逃れるいちばんラクな方法だと考えるわけです。 ところが、死んだつもりなのに相変わらず自分がいる。そして逃れたはずの責任と義務の観念が相変わらず自分につきまとう。その精神的錯乱が暗黒のオーラを生み、それが外界との接触を遮断します。その状態から抜け出られないまま何十年も何百年も苦しむ者がいます」
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